face on

あぅー

『ガールズ&パンツァー』

 優しさの押し付けはむしろ迷惑!と伝えることの優しさ。

 あるいは、押し付けにならないように考慮することの優しさ。

 また、さらっと流すという優しさ。

 

 もうちょっとこう、ぼっち描写、なんとかなりませんか。泣ける。

 5話まで見ましたが、秋山さんの行動は優しさを表現するための描写には見えなかった。そういうところの優しさから来る信頼のほうが、俺にとっては暴力性よりも目に止まります。無闇に優しいのも考え物です。えーと、ぼっち描写ががっつりしているくせにその子に対するフォローがさらっとしている、その配慮の仕方の話。

 あと沙織が好きです。あのめがねは卑怯。

たつひこ『夏色キセキ』2巻

 アニメの1話よりも前から1話までを描いた1巻に続く2巻は、紗季と夏海がくっつく2話から何話か飛ばして10話まで、というこのダイナミズム。たまんねえ。つまりこの2巻は、キセキによって空を飛んだ後から、というよりも紗季の引っ越しの話を夏海たちが知ってから、引っ越し先の下見旅行をして何だかいよいよ切羽詰まってる感じになるまで、と言ったほうが通りがいい。キセキによる夏、なんてのもあってもいいけど、彼女らにとってのキセキは、なんだか色々あった夏の、ただその一部であったろう。多分。

 さて、やっぱりアニメでいう2話、紗季と夏海がくっついちゃう話が大変、大変よろしゅうございました。なんだ。セックス?ノーセックス?モンモンモン…優香のせいだ!という。(分かりません) 下田の街を二人でくっついて優香たちを探しているときのセリフなんかはもう酷い痴話喧嘩であります。「隠し事ばっか…!」「違っ そんなんじゃ…」てあなたたち、顔…近い……。そんなセリフ改変のおかげでほろ苦具合はアニメの方が上です。約束のことを思う夏海と、最後の、二人は一緒な感覚を噛み締める紗季と、というあんまりな感じは薄い。どっちも好きですが。

 3話飛ばして4話。さすがにタメとか諸々演出ではアニメは凄いなーと思った。「「紗季」って 呼んでください」はウッとなるとこなんだけど、アニメのが断然強烈です。だから凛子(が入ってる夏海)が走ってくるあたりの説得力もアニメのほうがあったような気がする。優香の願いが凛子の願いでさ。ああ違ったんだ、って分かっても分かったときには遅いはずで、そこを最初から分かってた人がちゃんと止めてくれる。一時の感性(やキセキ)によったものが、ちゃんと一時の感性によって結果的に各々の良きものになった、という説得力。で、その分漫画版は「おかえり」が死ぬほど良かったと思う。漫画版だけ読む人はあんまりいそうにない気がするので両方消費している方にお聞きしたいのですが、アニメの「「紗季」って 呼んでください」がだいぶ効きすぎてるところがあるんじゃないかと思うのですが如何か。それこそアニメを全部見た後だと優香のやたら大人っぽい面も知っているわけで、それはこういうところの諦めと、戻ってきた自分を受け止めてくれる人がいることを実感してのものなのかなあ、などと思うわけです。優香の大人っぽいとこってのは、紗季が行っちゃうことはどうしようもないけど、それでもきっと、大したことじゃないよ、みたいな導きとか。無論それは「大したこと」と心底感じたことがそうではなかった、と知った者のみがその感情に厚みを持って言えることであって。諦めだけ、てのも悲しいですし。「おかえり」は、それを与えるだけの言葉であったように見えました。あるいはこれ以外にも色んなことを優香はして、その都度凛子が「おかえり」って言ってきたんだろうな、とか。

 というあたりで2巻半分。残りは気が向いたら。

菅野マナミ『ひまわりさん』3巻

 ひまわり書房で働くひまわりさんと、ひまわりさん大好きなまつりと、それにまつわるお話し。

 2巻で先代のひまわりさんと今のひまわりさんのことが語られた。もう先代のひまわりさんとは会えない、それを再確認させる夢を見たひまわりさんに、まつりが「好きだ」といつものように言うシーンがあって。その夢は悲しい事実なんだけど、ひまわりさんは無表情で、だけどまつりにはちゃんとひまわりさんが悲しんでいるように見える、っていう、ベタに好きなシーンだった。本を1冊読むこともままならない、声がデカい、よくコケる、おバカなまつりは、それでもひまわりさんの好きなものを含めてひまわりさんをよく見ているってのが。

 3巻の温泉の回では、まつりがハイパー聡い子になっている。2巻の、おバカだけどただのおバカじゃない、とは違った明確に聡い子に。温泉の夜のまつりは、ひまわりさんを「私は私だ」という結論に導いた。聡いと言ったが、ほとんどエスパーかも知れない。そのままセックスでもしないとこの違和感は拭えない。あるいは事後だったんでしょうか。まつりとひまわりさんトゥギャザー大人になるの巻だったんでしょうか。見せろよ!そこは!!のぼせてる間になんかやっちゃったのか!いつやったんだ!!おい!!

 

 買ってきてすぐ読もう、と思ってぺらぺら捲っていて、あ、なんかまずい気がする、と思って読んでなかった。また昔のひまわりさんの話があることに対する「もういいんじゃない?」感と、そのへんの雰囲気の、何だか終わりの予感から手が進まなかった。

 もういいんじゃない感も終わりの予感も、まつりの不在や変化が多分大きかった。なんていうか、ひまわり書房で、ひまわりさんがいて、まつりが来て、そんで「ひまわりさん」なんだって、そう読んでいた気がするから。だからひまわり書房を離れて改めて先代の話して、まつりも何かちょっと違って、っていうのはまだ早いように感じた。

 全部読んでこうしてキーボードを叩きながら思ったけど、俺、ひまわり書房が好きなんだなーと。結局3巻はあんまり面白くなかったんだけど、温泉に行ってる間が好きじゃないだけで最後の風子の話なんかは良かった。風子えろい。ひまわりさんが泣いたり「私は私だ」と思うのも、ひまわり書房で、まつりは大体その場にいるけど何となく察するだけで、そうして展開したら割と好きだったんじゃないかなあとぼんやり思う。いつも通り俺はこの作品にも終わりを望まないんだなあ、とか。

タチ『桜Trick』

 セックス漫画でした。これはひどい。

 きらら系、というのか、女の子ばかりの(4コマ)漫画は何冊も読んでいるのですが、如何せん何者かによる制約のようなものを感じたりする。いやそりゃー制約はあるだろうはずなのですが、とりあえずどんなものかといえばよう分からん男が唐突に話に絡んで、かと言って恋愛に発展するでもなくえーと男性読者の視点とでもなるかのようになんか変態っぽくしてる、とか。胸くそ悪いことは忘れよう主義なので、タイトル覚えてませんが。あるいは、女の子同士の関係にしたってこれはもっと尺取りたかったろうに、というのもまあそう。で、そこでそういうのを描き入れつつ上手いことやってくれればいいのだけれど、すなわちそれが俺にとっては制約に見えてしまって、どうにもブレーキがかかる。だから多くのそういう漫画は、百合も冊数出るようになったなあなんて思いながら一回読んで終わり、くらいのものであって、『ちゅうに!』を越えるものは未だ無い。

 また、よくわからない、ということがよくあって、そして良くあるものです。『ちゅうに!』もやはりよくわからないわけですが、俺の見てきたそれ系の漫画は、一個二個コレってものがあって、それ以外をコマ間の空白に葬り去っていたように見える。だから厳密に言えば、よくわからないけど、それね。ということである。(厳密……?) 『ちゅうに!』は、それね。の部分がちょっと、いやだいぶおセンチで俺の胸がケツから飛び出そうになるのでやっぱり特殊。それはさておき。

 『桜Trick』は、よくわからないけど、キスです。よくわからないのにキスだから、セックス漫画です。何言ってんだと思われるでしょうが、表紙もそうだけど、ほら、一回捲ってみなさい。ね?ひどいでしょう。これはセックス。(うるせえ)

 しかしキスもセックスも良し悪しなので良し悪しなりの配慮があるところは良い。キスのとき、空気がちゃんと重くなるのがそれかと見ます。例えば、キスしながら勉強すれば覚えたこと忘れないと思う、というあってはならない提案を飲みそういうことをするシーンがあるのですが、55ページの勉強しながらのキスと56ページの「ありがと」のキスの差がそれです。テーマ……テーマ? テーマであるキスをあまり軽くするのは利口ではない。とはいえ回数は必要。逆に重くし過ぎるとセックスである。よってギャグとして使いつつもキュンとなるところを用意、とゆーよーな。でまあ、それが成功しているかというと失敗で、正に性交してしまっているという話が最初の制約の話に繋がります。えー、なんと言いましょうか。描いてて凄く楽しそう、と勝手に思います。だから筆がノって、やたらにキスがそれらしく見える。から、セックス。これ、俺の見方の問題ですか。(そうです) でも79ページとかさー絶対やりすぎやと思うんよー。そのへんのブレーキの甘さが好きです。制約というと登場人物が増えてテンポをさらに速くする、とかもまあ、そんな話だと考えるものですがこれは大体このテの漫画はこうなので普通。増やさないでいければ割と豪腕。その点やはり『ちゅうに!』は良かった……。

 ちなみに、その増えた登場人物ことお姉ちゃんは好きです。よくあるダメな人で。恋を恋だと知らぬまま恋に恋してその後ちゃんと恋しながらもやっぱり恋なんて知らない、とかいうと示唆的にも思える。言い方の問題。かわいいです、お姉ちゃん。

 あとは36ページの二本目が好き。優が春香のふとももつねるとこ。ふとももつねってますからね。優、小さいからできるしね。春香もやっぱりスカート短くしてんだね、とかそーゆーの。なにせふとももだし。

夏色キセキ

 これくらい1周目で見抜きなさい、と言われて然るべきと自省することしきりなわけですが、1周してみると、やはり4人でないとアカン、という納得と、圧倒的に二人と二人で時間を過ごしているのが分かる。かつ、夏海・紗季のラインが強い。紗季ちゃん夏海好き過ぎ。

 そんな中で1話2周目。小学生の頃の回想シーン。「本当かどうか試してみないと分からないじゃない」と言う夏海に渋々な素振りを見せつつ従う紗季ちゃんなのですが、その前に優香に「夏海の言うとーりー!」と言われてしまいます。また、願い事を何にするか、というところでも、優香にがっつり賛同されてしまいます。自分も異論無さそうなのに、優香に先に。

 一番先にアクションを起こす夏海と、真っ先にレスポンスを返す優香。しかも概ね肯定的なレスポンスであった。こういうところが入れ替わり回に繋がってくる。と思うと夏海と凛子の入れ替わりってのはやっぱり、こう、ねえ。「リンはユカの言うこと聞きすぎ」だってさ。しぬ。

夏色キセキ

 もうだめ。全くだめです。どうしてこんなことになっちゃったんだろう。一体俺は何にこんなにやられているのであろうか。一体何を見たのであろうか。と言えば、やはり一夏を過ごす女の子達であるわけですが。

 

 どうにも抜けていってくれない。あまりにも「そのまんま」過ぎて、少なからず終わったはずの夏をまだ見ていたい。見ることができるような気がしてしまう。ちょうどここ数日の気分といえば、もう夏は終わったと思っていたら何だかまだ1週間くらい8月はあるようだし、週間予報を見ても最高気温は33度を下回らないようで、どうにもだめです。8月の終わりはだめです。

 キセキ、なんてのは例えば夏海と紗季がくっついて紗季が嬉しがったり、夏海が二人になったところを最初に見て紗季が嬉しがったり、あるいは「思い出」などと言うに丁度いいものであったわけですが、3話を見れば分かるように魔法ではない。キセキを捨てても、またキセキみたいに再会するんでしょうし。というのは、カーテンの色を好きに変えられるということは紗季の家は売却されないのだろう、との2ちゃんのレスを見たので父親の仕事が何となく落ち着いたら普通に下田に帰ってきちゃうんだろう、というのはキセキだなあなどと思うからですが。願い、叶ったね!とか言いそう。夏海が。という妄想は、ハッピーエンドで終わってくれればあんまりしないお約束のはずで、ああこの子たちは行ってしまったのだ、と遠く離れていく船を眺めている気分になれるはずで、とはいえその船を逃すまいと必死にしがみついている俺がいる以上あれはハッピーエンドで、しかしその船はあまりに微妙な海域にたゆたっていませんか、とそう感じます。

 3話と4話が百合好きとしては重要で、3話は小学生の男の子がその目で見たキセキを信じて止まない話。4話は中学三年生の男の子がその目で見たキセキから目を逸らす、あるいは信じない話。百合的に言っておいしいはおいしいのですが、例えば3話の男の子のようにキセキを真に受ける4人であるのか、4話の男の子のようにキセキに目が効かない4人になるのか、というとどっちでもない、というあたりがさっきの船の例えです。

 そういう4人がそういう4人である、というのはやっぱりハッピーエンドにも思えるのですが、熱に浮かされて紗季の本意をついに引き出してしまう夏海のように、この夏が終われば、まあいいか、と思えるのでしょうか。うん。暑いなあ。

モーレツ宇宙海賊

 モーパイです!モーパイが面白いです!!

 例えば茉莉香かわいいとかチアキちゃんかわいいとかヨット部の面々素敵とかあるわけですが、そういう感情が何者かによって邪魔されないのが良い。監督が「恋愛要素を排除した」と書いていたのをどこかで見たが、逆に恋愛要素を意識して作ったとしたらこうはならない。

 制作者がどういうつもりで作ろうが知ったことではなく俺は茉莉香とチアキちゃんのだだ甘な同棲生活を幻視する。そういった自由とは一体何によって感じられるのか。キャラクタだ。キャラクタを描きさえすれば、そのキャラクタが視聴者の前にも立ち現れ、物語を描こうとすればプロットが立ち現れる。キャラクタがそこにいれば、あとは勝手に読みの自由を駆使できる。けれどプロットが、またキャラクタが存在しないアニメ作品は多分無い。では何が視聴の自由を奪う可能性を持つのか。というのは以前書いた通り。ラグランジェで言う「お兄ちゃん」。主人公まどかはそれなりに丁寧に描けていたはずなのに、いきなり雑な「いい人」が現われることによって遡及的にキャラクタがただプロットに属したものに成り果てる。この現象はこの一点にのみ影響を及ぼす話ではなくて、お兄ちゃん登場の以前も以後も、その登場によって見方が変わってしまう可能性を持つ。つまり、主要なキャラは雑に扱わない、というのが一つの解と思える。

 弁天丸クルーは今のところモブである。「キャラ付けが典型的で古臭い」という意見をついったーで見たが、当然である。今後説明する可能性のある、けれど現時点では「ああそういう人たちね」程度で済ませられてかつあまり絡んでこないキャラ達なのだから。彼らが大きく何かを握っている、という含みも無い。最新話を見ると特にそう思う。茉莉香に「彼らの考えている何か」をさせようってわけじゃないんだ。あとチアキちゃんなんかは実は全然掘り下げられていない。こういうのも良い。前も書いた気がするけど、それっぽい(例えば「ツンデレである」)のにあまり描写されていないキャラとかは好物です。まあ何にせよ茉莉香のこと好き過ぎ。泣ける。姫も出てきたばかりだけど大体同じ。要するに、分からないキャラはそのままにしておけばいい。その人間のその人間らしさなんてものは、いくら視聴者といえどそうそう容易く見ることが出来てはいけない。それでは足りない。信用ならない。じっくりやっていけないのなら、それは出すべきではない。というあたりをよく踏まえていると思うのです。モーパイ。恋愛要素を排除しようとして恋愛要素を排除できたかどうかはやはり知ったことではないのだけれど、「恋愛してますよー」という武器を捨て去ることができれば、また一歩その一人のキャラに近づけるんじゃないかなあと思います。

 あとカメラワークが良い。ということをついったーで言ってたんだけど、それは今言ったような「不要なものをがっつり排除している」ということで、安易なお約束で映しそうなところを映してなかったりしたので好印象だった。んだけど、8話あたりから怪しい。あとあれ、絵がダメってのもけっこう見るんだけど、えー!って感じですね。どストライクじゃないですか。ふともも太いし。