face on

あぅー

輪廻のラグランジェ

 『輪廻のラグランジェ』を最新の5話まで見た。4話まではイイヨイイヨーだったが5話が最悪である。

 何が最悪だったのかと言えば、あの「おにいちゃん」である。俺は百合ストですが、男が存在・登場してはならないとは考えないので、主要キャラに兄がいて登場したって構わない。では何が。いい人であることがあからさまなことが、である。

 主人公であるまどかはいい人だろうか。いい人というか、俗に「天然」とでも言われそうな、よく分からない人物だ。ランはどうか。まどか大好きである。ということが4話までで示された。他はまあ、お姫ちんらしい、とか。ムギナミはどうか。ちゃんと出てきたのは4話あたりからだったが、よく分からず、何かしでかしちゃう子なんだろーなーである。何も考えずに見るとこんな感じなんだけど、逆にがっつり考えて読んで「このキャラはこうである」つーのも(例え最終話まで見たとしても)一言二言で言い表せるものではあるまい。少なくともそういう風に4話まで見た。

 5話で「おにいちゃん」が出て来て、「いい人」という概念が立ち現れた、と思った。そういうキャラ。そういうキャラである。何故あんな演出を許したのだろうか。まさしく「お前のためを思って」。もっと言えば5話ではランもプロット通りに動く。無論1話から4話までだってそうだったはずで、まどかは冒頭、人を助けるために制服を脱ぎ海に入りたまたまそれを見かけたランがそれを着たわけだが、ランが着るためにまどかが制服を脱いだのだ、もっと言えばランが制服を着て、そのランが着た制服をまた脱ぎまどかに返すためにあの冒頭があったのだ、と見たって良いはずだ。つまり、そこに読みの自由度がある。プロットとは関係無く、作品を見て喚起されること。真実なんてのはどうでもよくて、楽しむためにただ楽しみたい。5話はどうだ。アバンと少々ランのいいところが描かれているくらいで、その後はまどかもランももぬけの殻であった。

 アニメをそんなにたくさん見るほうではないのだけれど、見てみよーと思って見始めて、感想が「今になって(2012年になって)まだこんな描写をしているのか」と思うことが実はけっこうある。これは昔のアニメと比べて言っているのではなくて、アニメとはこんなもんなのか、という侮蔑である。無論、だからこその逆もある。こんなアニメが見れるようになったのか、と。ともあれ、5話はそういうものだった。蛇足で言えば、つまり「おにいちゃん」はもっと冷徹さを押し出せば良かった。前半の気のいいアンチャンとのギャップでなお良かっただろう。

 と憤慨していたのだけれど、折角好きになっていたアニメを貶して終わるのでは悲しい。(貧乏性) なぜ「おにいちゃん」のあんな態度を描写せねばならなかったのかを考える。

 「いい人」の鉄則:最初は悪い人。マリア様がみてるの柏木さんや瞳子カレイドスターのメイやレオン、いくらでもいるだろう。俺はあの「おにいちゃん」はそう仕立てられるものだと思ったので憤慨したものだが、そうではなかった説。つまり、上記のようないわゆるツンデレの枠外である。例えば飄々としたキャラ。「おにいちゃん」登場からのAパートではそんな風にも取れる。が、当然Bパートで失敗している。他のキャラ付けはイマイチ思いつかない。

 どうでも良い説。フェードアウトである。あるいは死ぬ。つまり、あの「いい人」の面影だけを残していなくなるのである。それならば最初からキャラを、というより概念を描写せねばなるまい。消えた後で手紙が残っていた、なんてのはそれこそ古臭いと思ったか。しかしラグランジェの世界でそれがあり得るか、というとそれもイマイチ怪しい。

 ムギナミが死ぬ説。「いい人」の概念はそのまま突っ走る。が、上記の理由でやはり微妙である。

 というわけで、「おにいちゃん」という敵とは別の黒幕が現われてムギナミを攫い「おにいちゃん」もまどかたちに加勢、ということになった。味方なのだからいい人だよ、まどかと同じ熱血だよ、というわけである。ムギナミが攫われるのは、自分を兄と呼ぶ存在≒妹が利用された(多分自分も利用されていたのだろう)ことに対する怒りエネルギーを描写して説教臭さをぶっ飛ばす魂胆である。いい人はいい人だからいい人として描写されたのである。……つまらない。そうなるとまどかはあの描写されたまどかというだけのまどかであるし、ランも同様であって、そうなることを心底厭うものであります。

 

 そういえば『戦姫絶唱シンフォギア』も見た。4話まで。4話で翼のマネージャーを兼ねているあの男がほとんど唐突に奏の話をし始めるのを見て、やはり「まだこんなことをやっているのか」と思ったので少し止まっています。あの台本を隠そうともしない態度が気に入らない。俺はそんなものを見たいんじゃない!と叫ぶもアニメは俺のために存在するのではないので、なんて態度になっちゃうからアニメはやはり苦手であります。でもみくが気になるので見る。

R18!

 ぷらぱ『R18!』4巻読了。相変わらず良い。

 こうやって「良い」とだけ言うような場合、その対象が例えば今のように漫画であれば、絵がかわいく、話が面白く、空間に奥行きがあり、それらによってキャラが活きている、そんな状態を指す。いや多分もっと多くの要素がありますが。

 そんなわけで絵はかわいく話が面白く空間に奥行きがありそれらによってキャラが活きているように思えるR18!は良いのですが、話が面白かったり空間に奥行きがあるってなんなんだろーね、というと違和感の在り方かなあなどと思ったりします。

 56ページとか79ページの左の4コマとか。諸々関係無く51ページからの流れが大好きなのですが、思いついたら行動、思いついたら口に出す、つーと活発(でおバカ)なイメージがあったりするもんですが、里佳ちゃん活発じゃないよねえ。活発なキャラが突っ走ってあれこれやったり言ったりすればツッコミが発生する。あるいはスルー芸として表現される。そこに違和感は無い。一つの定型が存在する、ということが違和感ではあるものの、漫画的リアリティには無縁の話であって。里佳ちゃんはツッコまれることもあるけれど、スルー芸を表現されるわけでもなく80ページのように「そういえば」とか会話が始まっちゃったりして、そういう違和感が良い方向に作用する。

 庄名泉石『放課後せんせーしょん!』なんかも読んだのですが、これはやりすぎの一例。頼りすぎの感が強く、違和感を違和感として自然に表現してしまっている。何に頼りすぎなのか、と言えば漫画的リアリティであるし、読者である。とはいえキエちゃんかわいくてスナオかわいいので読めます。大事なこと。

百合姫

 『百合姫』 2012.3

 

 「きものなでしこ」のかわいさが尋常ではない、以外言うことが無い。訳でも無い。

 と言いつつ早速アレなのですが、誰でも知っていそうな、言うまでもない事を書く。

 AはBである、というときに「AはBである」と言わずにAがBであることを伝える、そんな表現技法がある。誰かが何物かになったことを本人ではなく、クラスメイトあたりから風の噂で聞く、みたいなやつから(曖昧な、概念的な)比喩によってそれを伝える場合もある。誰かが何物かになった事、その時、は表現しない、そんな描き方である。そのことを意識せずとも漫画では表現の断片が描かれ続けるため、そこで表現されているもの、表現を隠したもの、表現しなかったものを判断し続けることになる。

 そういう表現は皮肉やシャレオツ感を出す効果がある。しかし淡泊になりすぎるきらいもある。好みの話にもなってしまうが、向き不向きはあるだろう。説明が必要なときにはそのまま表現した方が無論良いだろうし、短歌あたりだと説明は不要の情緒の分野であるから、素敵な比喩を探した方がいい、など。では百合漫画ではどうだろうか。

 これも結局好みによってはしまうわけだけれど、話の、つまりプロットの種類に決められる部分はそこそこ大きいんじゃないか、と考える。

 淡泊な表現を淡泊なまま、隠したまま、比喩のまま終わらせるか、ダイナミズムを見せつけて終わるか。個人的な観測範囲の話でアレ過ぎるのですが、百合漫画では前者が多いように思う。

 ちさこの「スキキライスキ コンプレックス」と井村瑛の「最低女神」の話である。俺は後者が好きです。この場合、前者の進みは最後まで淡泊に思える。そこに深い味わいを見出せれば良いが、生憎こういう進みの作品はたくさんあって、そのたくさんある中のこの作品の楽しみを見出すのだ!という風にはならない。(そのへんはボリューム等の問題もある) 後者の(一応)隠しながら話を進めてからの露見、までは普通だが、最後のよく分からないシメが比喩を比喩で終わらせない濃厚な何かを感じさせてくれる。どうでもいいのですが、俺はあの後首から手を離す、と読みます。最後のコマはそうとしか読めない。

 その二作品の前後にあるきものなでしこ最強ではあって、今の話を噛み合わせればスマートな手法だと言えるのではないでしょーか。何言ってるか分かりませんか。俺もよく分かりません。

 あと慎結! 感情、観念がそのまま漫画に落ちてきたかのよう。短い読み切りがあまりにもはまっているけれど長いの読んでみたいー。

ささめきこと

 いけだたかしささめきこと』9巻読了。

 女の子が女の子に恋をすることは普通である。普通の恋である。ということを言うために例えば200ページ×9冊費やしたとしても、そうだね、普通の恋だね、ということになる。

 女の子同士の恋は、それは普通である、と言わなければならない程度の普通である。あるいは頭で言う普通である。そのあたり、勢いで描いたり頭で描いたりしていそうだなあなんて思える部分は多くて。

 大団円、と言えそうで言えないのは折角の「周辺の事柄」が割と無駄になっているところで、蝉丸さんが大蛇足ならその他諸々の子たちだって大大大蛇足である。個人的にはそうした周辺の、ちゃんとそれらによって醸成される温度、湿度が好きだったし、それをどう処理するのかに期待していたのだけれど。処理されたのは主役の二人で、何だかどこか遠くへ行ってしまった。二人とも。どこかへ行ってほしくないと思うほどこの二人のことを愛していたかというとそうでもないので、俺が言いたいのはつまりどこかへ行くならみんなでどっか行け、ということです。

 関係性萌えだのキャラ萌えだのの話と同じなんだけれども、「二人だけの世界」なんてよく言うものであって、風間と村雨は二人だけの通信手段を持っていたりするわけですが、しかし風間が風間であるために、村雨が村雨であるためにどれだけのものが必要であったか。無論、親がどうこう兄弟がどうこうと言いたいわけではなくて、そうした要素から成る人がそこにいて、特にささめきではそうした周辺事情はよく描かれていたわけじゃないですか。だからこその「二人の世界」は分からないでもないけれど、多分、もっと普通の子たちだと思うよ。ぼくは。というかそう描かれているじゃあないですか。なのにどうして他の子たちを同じように描いてあげないのだろう。あまつさえ「大蛇足」。いっそ漫画的普通から転げ落ちた二人を浮き彫りにしているかのよう。

 俺程度が言うのであれば何ら問題はなかろうが、普通の恋であるはずのものをして、普通である、なんて言ってはならない。あるいは普通なんてものは存在しなくて、などという下らない注釈を付ける必要が生じる。頭で考えて行動すると、そういった罠に陥りがちです。

 というわけで、この作品は周辺を見る作品であると思って読んでいたので、その周辺から成る湿度が好きでした。お疲れ様でした。