face on

あぅー

ささめきこと

 いけだたかしささめきこと』9巻読了。

 女の子が女の子に恋をすることは普通である。普通の恋である。ということを言うために例えば200ページ×9冊費やしたとしても、そうだね、普通の恋だね、ということになる。

 女の子同士の恋は、それは普通である、と言わなければならない程度の普通である。あるいは頭で言う普通である。そのあたり、勢いで描いたり頭で描いたりしていそうだなあなんて思える部分は多くて。

 大団円、と言えそうで言えないのは折角の「周辺の事柄」が割と無駄になっているところで、蝉丸さんが大蛇足ならその他諸々の子たちだって大大大蛇足である。個人的にはそうした周辺の、ちゃんとそれらによって醸成される温度、湿度が好きだったし、それをどう処理するのかに期待していたのだけれど。処理されたのは主役の二人で、何だかどこか遠くへ行ってしまった。二人とも。どこかへ行ってほしくないと思うほどこの二人のことを愛していたかというとそうでもないので、俺が言いたいのはつまりどこかへ行くならみんなでどっか行け、ということです。

 関係性萌えだのキャラ萌えだのの話と同じなんだけれども、「二人だけの世界」なんてよく言うものであって、風間と村雨は二人だけの通信手段を持っていたりするわけですが、しかし風間が風間であるために、村雨が村雨であるためにどれだけのものが必要であったか。無論、親がどうこう兄弟がどうこうと言いたいわけではなくて、そうした要素から成る人がそこにいて、特にささめきではそうした周辺事情はよく描かれていたわけじゃないですか。だからこその「二人の世界」は分からないでもないけれど、多分、もっと普通の子たちだと思うよ。ぼくは。というかそう描かれているじゃあないですか。なのにどうして他の子たちを同じように描いてあげないのだろう。あまつさえ「大蛇足」。いっそ漫画的普通から転げ落ちた二人を浮き彫りにしているかのよう。

 俺程度が言うのであれば何ら問題はなかろうが、普通の恋であるはずのものをして、普通である、なんて言ってはならない。あるいは普通なんてものは存在しなくて、などという下らない注釈を付ける必要が生じる。頭で考えて行動すると、そういった罠に陥りがちです。

 というわけで、この作品は周辺を見る作品であると思って読んでいたので、その周辺から成る湿度が好きでした。お疲れ様でした。