face on

あぅー

百合姫

 『百合姫』 2012.3

 

 「きものなでしこ」のかわいさが尋常ではない、以外言うことが無い。訳でも無い。

 と言いつつ早速アレなのですが、誰でも知っていそうな、言うまでもない事を書く。

 AはBである、というときに「AはBである」と言わずにAがBであることを伝える、そんな表現技法がある。誰かが何物かになったことを本人ではなく、クラスメイトあたりから風の噂で聞く、みたいなやつから(曖昧な、概念的な)比喩によってそれを伝える場合もある。誰かが何物かになった事、その時、は表現しない、そんな描き方である。そのことを意識せずとも漫画では表現の断片が描かれ続けるため、そこで表現されているもの、表現を隠したもの、表現しなかったものを判断し続けることになる。

 そういう表現は皮肉やシャレオツ感を出す効果がある。しかし淡泊になりすぎるきらいもある。好みの話にもなってしまうが、向き不向きはあるだろう。説明が必要なときにはそのまま表現した方が無論良いだろうし、短歌あたりだと説明は不要の情緒の分野であるから、素敵な比喩を探した方がいい、など。では百合漫画ではどうだろうか。

 これも結局好みによってはしまうわけだけれど、話の、つまりプロットの種類に決められる部分はそこそこ大きいんじゃないか、と考える。

 淡泊な表現を淡泊なまま、隠したまま、比喩のまま終わらせるか、ダイナミズムを見せつけて終わるか。個人的な観測範囲の話でアレ過ぎるのですが、百合漫画では前者が多いように思う。

 ちさこの「スキキライスキ コンプレックス」と井村瑛の「最低女神」の話である。俺は後者が好きです。この場合、前者の進みは最後まで淡泊に思える。そこに深い味わいを見出せれば良いが、生憎こういう進みの作品はたくさんあって、そのたくさんある中のこの作品の楽しみを見出すのだ!という風にはならない。(そのへんはボリューム等の問題もある) 後者の(一応)隠しながら話を進めてからの露見、までは普通だが、最後のよく分からないシメが比喩を比喩で終わらせない濃厚な何かを感じさせてくれる。どうでもいいのですが、俺はあの後首から手を離す、と読みます。最後のコマはそうとしか読めない。

 その二作品の前後にあるきものなでしこ最強ではあって、今の話を噛み合わせればスマートな手法だと言えるのではないでしょーか。何言ってるか分かりませんか。俺もよく分かりません。

 あと慎結! 感情、観念がそのまま漫画に落ちてきたかのよう。短い読み切りがあまりにもはまっているけれど長いの読んでみたいー。