大義
先週末だったか、会った人と「物語」が云々みたいな話になって、物語が無いだのなんだの言うのは古い、みたいなニュアンスであったことを思い出した。あれはどういう意味だったんだろう。
物語は終焉など迎えておらず、ただ大きな/小さな物語の個々の境界は以前とは違うものになっている、というような把握で僕は聞いていたのだけれど、まあつまり、そのような把握です。そしてそれは別段、何ら変わらないものなんじゃないかなあと思います。想定される以前とやらと。
とにもかくにもある作品を前に大変なエネルギーを感じることは多くて(無論、どんな作品にも大変なエネルギーはかかっておりましょうが)、そのエネルギーは発見されることもまた多く、それが結局隠されたものなのか、隠されているから「大変な」エネルギーと感じられるのか、調査を依頼したいところではあります。
というのがロコ・モーションの話かガルパンの話かは読んでくれた方にお任せ致します。