コダマナオコ『不自由セカイ』
つぼみ読者の皆様におかれましてはコダマナオコと言えば「レンアイマンガ」でありましょうが、百合姫コミックスから出版の本作はそちらとは随分毛色の違うものとなっておりました。
外見の良さから同性に嫉妬され、いやがらせを受けていた茗子を救ったのは一学年上の礼央。それをきっかけに茗子は礼央に懐き、同じ部活に入る。部活動中にケガをした茗子をしばらくの間礼央が家まで送ることになるも、礼央に用事があって送ることができないその日、茗子はレイプされる。そのことに負い目を感じる礼央に付け込み、茗子は礼央を奴隷にする。
というあらすじから「全ては茗子の計画だったんですね!スバラシイ!」と想像する諸氏には、今は一周回ってこんな季節です、とお知らせをしたい。どの季節もそれぞれ良いところがありますが、中々一つのところに止まるというのは面白くないものであると、そう思います。
高瀬、という礼央の同級生の行動から礼央は茗子と距離を取り、それが引き金となって二人は愛を確かめ合うわけですが、実家に帰ってしまった茗子を追いかけて、事件のあった桜並木で礼央が顔を覆う場面の独白が印象的です。
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いつのまに
私はこんなふうに
なってしまったんだろう――…
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なんだ、「茗子に会いたい……」とかじゃダメなのか、と思わずにはいられない。無論ダメなのですが、その理由の一つは茗子との対称性を示すためだと考えられます。レイプされたがそれを利用する茗子と、奴隷だがその立場に甘んじて苦慮から逃げた礼央の対称性。描写はされていないものの、つまりこのときの茗子は自分のこと・自分の状況のことではなく、礼央のことばかり考えていたのだろうと思います。
「私なんかの言いなりにならない 高潔で女のくせに無駄にイケメンな礼央さんが」好きだ、という茗子の気持ちも本物でしょうから茗子にとっても正しくそうであるはずですが、礼央にとっての「不自由セカイ」が独白により描写されていました。ちなみに自由とは、そう、高瀬さんですね。(笑うところ)
気になったのは、対称性を意識したためかBLっぽいところ。茗子が自虐的に過ぎるとか、礼央さんほんまの自己中天然タラシや、とか。あとは季節と言ったように、特段の目新しさはありません。巡り巡る類のプロットなので、人によっては古いと感じるかもしれません。個人的には、コダマナオコだからBLっぽさも感じるし、コダマナオコだから古臭くは感じなかったなあ、というところです。桜の舞う季節がどうか、二人にとって穏やかな季節でありますよう。