face on

あぅー

与太と『リトルアーミー』

 評論なり批評分析なりを毛嫌いする向きに関しましては、ワタクシ、そんなに「なるほど」と思っているのか、と思います。

 考えてみると、俺、評論なり批評なりの内容に噛み付いたことは何度となくあったろうけれど、その行為に文句垂れたことはない…んじゃないかなあ。ごめん、記憶曖昧です。そもそも人は人の好きにすればいい。そう思っているところが大きいんだとは思いますが、同時に、例えば俺の好きな作品に対する批評があったとして、中々「なるほど」と思わない、というのがあります。もう少し言えば、なるほどとは思うものの、そのなるほどはその批評した人間に対するものであって、作品・批評内容とはまた別の軸である。この人はこういう風に作品を見たのかー、のなるほど。そこに俺の見方はまるで関係無いのであって、ええっそんな見方って無いよっ!と身内に絡んだり、ああこんなつまらん見方もあるのか、と呟いたりするくらいでそれは批評という行為そのものの話では当然無い。よって批評等そのものを毛嫌いする向きにおかれましては、批評内容へのコミットは筋が悪かろうと考えます。

 ただ、存外にそういう向きが周りにいる。ついったーで呟かなくても、実際会って話してみると批評とかマジ勘弁、だったりする。なんでかなーと思う。主語の大きさと批評も関係無いし(批評をする人間に主語過大が多い、てのはまあ、あるんでしょうけど)。考えるに、批評の意味するところが「正しさ」になってんじゃないでしょうか。批評は、善悪・美醜・是非などを評価し論ずること、なんてありますが、つまり、そう捉えていない。批評をすることイコール正しさの決定、みたいな。もしそう認識されているとすると、そう認識されるだけのものも相当量ある可能性はあるわけで、滅べばいいなあとは思います。まあ「お前の中ではそれが正しいのだろう。お前の中ではな」で良いと言えば良い。ちなみに「分析」というと、何かを成立させている要素・成分を明かにすること、とあります。これは主語の問題で、実質検証の仕様が無かったりする(ことについて言われる)ことが多いと見えます。「Aという作品が面白いのは要素Bによるものだ」と言われても、明確に肯定も否定もできません。そういう側面もあるかも知れませんね、と言えるのみ。本来なら分析とは「Aという作品の監督Bは監督Cの影響を受けていて、そのことは○○に明記されている。よって作品中のこの描写がある」とかそんなのが分析ではなかろうか。無論、それも個人的な分析に止まるわけです。

 とりあえず俺の中で批評とは、ここは良いよね、でもここは微妙なので、こうだったらもっと良かったかもね、なんて言うのがそれです。それで、そういうことを言うには個々人の創作的な意匠が残念ながら紛れもなく付きまといます。だから、批評が好きです。いやーせっかく一つの作品についてそれなり以上の人数であれこれ言える場があるってのに何も言わないなんてのはもったいねえ。無論、言わない、というのも一つの芸であることを俺は知っていますが。

 何にせよ、批評内容について思うところがあるのなら、それは自分の中にその批評内容に対する正しさ的な「なるほど」があるのでは、と思ってしまいます。で、それって良いことに思えます。俺は滅多に無いので。シヤキョーサク。

 

 ところで『ガールズ&パンツァー リトルアーミー』読みました。

 初っ端カラーページの「私も普通の女の子になるんだ」といい西住さんの友達観(的トラウマ)描写といい、読むんじゃなかった、と半ば思いました。と言いつつ読むのは、アニメで戦車を車長として動かす西住さんはやっぱり格好良くて、楽しそうな瞬間…はまだそんなに多くないけれど、それでもイヤイヤには見えなかったりするからで。友達が出来て喜ぶ西住さん同様、戦車をもっと活き活きと動かす西住さんは、うむ、見たい。そして活き活きと戦車を動かす理由に、あの素敵な友人たちがあったならいい。友人たちも西住さんと共に前へ進むであろう。と思うので、リトルアーミーは買いだと思います。

 あ、話繋がってねえ。