face on

あぅー

 「夏色キセキ」は成長物語である、ということに納得するには、時間は多分さしてかかってはいないが、何だか悶々としたものがあった。ああそうですか、やっぱり彼女らは行ってしまいますか。と思いながら、いつだって俺の手の届くところになんか居なかった。彼女らは下田に行ったって会えやしない。あるいは、下田で彼女らに会ってどうするのか、会いたいのか、手の届くところに居て欲しいのか、と自らに問えば、まあそうでもないなあ、などと。けれどもそうした何かしらの願望(欲望)、そんな自然に捻れた構造の願望の元になっている作品の出自は一体どうなっているのか。そういうことを考えたりもした。

 最近は繰り返し『機動戦士ガンダムUC』を見ていますが、「強烈な否定の意志」という言葉が出て来ます。これが大変私、お気に召しまして。夏色キセキの作画がアレだったことに本気で気付かなかったというくらいロクに何も見ていない俺ですが、なんだかそういう感情のあれやこれやが大好きみたいで、作品ってのはつまり、否定でなくても全然いいんですが、やはり大変な意志によって作られたものであるだろう、と思っていて、そんなところばかり見ているような気がしています。
 あるいは俺もやっと環境を整え、自室でリアルタイムでアニメを視聴できるようになりました。で、リアルタイムでアニメを視聴していないんですが、ついったーのタイムラインを見ていると、かなりびっくりする頻度で「うーん、切りだな」みたいな、アニメを何話かで見切ったという旨のポストを見かけます。特にクール序盤。
 個人的に、アニメを見続けるというのは、例え1クールであっても凄いことで、一体何時間そのアニメに捧げてんだよ、とか思う。それを見続けさせるのは、作品の意志と、視聴者の感度だと思う。もう大体みんな絵キレイだし。概ねキャラの属性も揃ってるし。今やコンテンツはコミュニケーション無しには云々なんて話もあるけど、コミュニケーションの元となるのは一視聴であって。俺も好きですが、『リリカルなのは』が売れたのだって、そりゃそんな理由もあろう、と思う。上手い商売とかもありますでしょうが。
 それで、『たまこまーけっと』にもあるだろう意志が、俺には見えなかった。そういう話。百合でなくてもそうだろう、とさっき書いたのはそういうことで、というのは(説明の説明)、俺には「百合」を見せられているように感じた、ということです。人によっては「商店のあり様」や「幼なじみの男女」なんかをそう感じただろうな、と思った。ここで百合が強く出られるのは、百合がめんどくさくもそこそこ話に出やすいのは、百合がよく分かんないからです。「この作品で俺は百合を感じたッッ!」と言うこともできる、ということです。そしてそういう百合のあり様を創造しようとする作者の意志を想像することも、例えば、可能です。んで、俺ならそれをして、「勘違い」と言います。