face on

あぅー

しおやてるこ『レモネード』

 クロノくんの名台詞、「こんなはずじゃないことばっかりだよ!」みたいな。迷いながら、あるいは分かっていながら、分かっているフリをしながら生き始めたところで、だからやたらと振り返ってしまう。無理して笑ってみる、なんてのとかその行為に酔ってみるとか。諦めや開き直りと言うとちょっとアレで、別の道を見つけたと言うほうがきっと良い。ある感情を抱いたまま生きていこう、という決断も多分同じ。と思いたい。

 甘酸っぱい物語、は、酸っぱいだけのことが多い。これがきっと甘さなのだろう、というのは甘さの実感ではなくて、成分表を見て知るようなもん。この作品も概ねそうで、その自覚があったのか、最後はなんかそれっぽくなってた。でも甘酸っぱいってそうじゃないよね?とは思う。酸っぱいだけのほうがつまり、甘酸っぱい物語であるわけです。

 最後の甘さが蛇足であったかと言えば、それでも「そんなことはない」と言えるくらいには良い感じです。登場人物がなんか色々考えてる(前段)のが緻密に描写されているので、行間に一貫性がある。なので最後だけアレであっても、そんな風には読める。
 ちなみにフキダシ外はちょっと喋りすぎかも知れない。あとはまあそんあ感じであるので、隙が無いってこーゆーのを言うんだなあなんて思ったりも。


 それで、お姉ちゃんは妹だいすきで東京に行っても妹に似た子を口説いてはポイ捨ての日々なんでしょうか。ああ、やっぱりそうですか。あとピカリとナオミは爛れすぎだと思いませんか。俺は思います。

中距離

 生まれてこのかたほぼほぼ東京にいて、高校大学の6,7年は神奈川に住んでいたがそれも川崎や横浜より渋谷が近い田園都市線沿線という有様であり学校も東京であったため、シティボーイと言われてもそれはまるで否定の仕様が無い。

 なんだかそんな風に東京周辺で育って段々と移動範囲も広がって、昔から親に車でどこかに連れて行かれる度に車で移動ってのは不自由なもんだなあ歩きたいなあと思っていた僕は電車でふらふらと出かけるようになり、高校生あたりから鎌倉・湘南にはまって月に一度(は言い過ぎかも知れない)くらいの頻度で訪れては歩き回っていて、最近(といってもここ4,5年かしら)は五日市の風情なんかもだいぶ気に入っていて、何が言いたいのかと言うと電車で1時間半とかそんな距離でのトリップをよくしていたわけです。仕事をするようになってからは時間の制約もあるし、やはり丁度良い。
 あるいは北海道に(これももう3,4年前かしら)行ったこともあったのですが、なんだか遠すぎるという感覚と、ヒコーキははえぇなあなんていう小並感ですか、そういうので距離感もへったくれもなく、友人と遊べたのが楽しかったのと北海道の人は雪は降っていても傘をささないことに驚いたのを覚えているくらいである。親戚に呼ばれて九州バスツアーなんてのにも行ったが、やはり距離感とかは特に感じず、バスツアーはもういいかな、と思ったくらいであった。バスツアーの風情の無さはなんなんでしょうね。なんなんでしょうねっていうか、俺の旅には計画もガイドもいらないってだけなんですが。そういうものと諒解して今ツアーに参加したら楽しめるんでしょうか。いやそも旅で団体行動ってのが以下略。

 自分の中に楽しさ、あるいは楽しい、という枠があって、それがどこまで楽しいのか、どれほどの楽しさが今後自分を待っているのか、みたいな考えしか無いようなハナシで、旅に関してはつまり鎌倉に行くのも北海道に行くのも別段(友人が遊んでくれるのとかは別として)変わらないと思っていたわけです。近場で済まそう、と思って鎌倉に行くわけでなし、遠出しようと思って計画を立てるということもない。ふらっと秩父に行くなんてのは無論移動時間を考えますが、連休が取れてその気になれば唐突に長崎とかにも行くんでしょう(行きたい)。旅とは、旅である、というか。歩きたいだけ、見たいだけ、というか。

 それで、下田に行ってきた。そのことを書きたいなあと思って中々書けずにいたのだけれど、俺が言いたいのは下田がどうであったかということよりも、まだ見ぬ土地を思い描いた像と実際の土地のギャップとかなんかそんなニュアンスのことである。

 墓参りのついでに由比で桜エビを食う、というのが我が家の恒例行事であり、じゃあ桜エビ食ったらそのへんで降ろしてもらって俺は単独下田へ行く、という概ねの決定をしたのが実際行った日の二日前くらいであったとか、そんなことをついったーでポストしてたら某氏が一緒に行くなんて言い出したりとか(そんで寝坊して来なかったとか)、もともと下田の滞在時間は5,6時間の予定であったとか、結局当日毎度の如く寝坊して桜エビすら食えずに(当然墓参りもせず)富士川の駅で降ろしてもらったとか、それで何とか1447(だったか)に下田に着けたとかそんな慌ただしいにも程がある状態ではあったが、それでもインターネットを駆使して僕は着々と下田の情報を集めていた。夏色キセキの聖地を巡るにはどう行くのが効率的か、しかしもう日が暮れるのも早い……どこを諦めるか、とか。また、そんな予定を組んでもどうせ立ち止まる時は立ち止まるわけで、気になる路地があれば入ってしまうわけで……なんてことも考えていた。つまりいつも通りである。
 前日あたりから、夏キセで使われている場所と場所の間隔が気になり出す。近い…んじゃないか……? 某巨大掲示板(の夏キセスレ)でオススメのルートを聞いてみたが、そのときに言われたこともあった。「彼女らが日常的に行っている場所だから、ふらふらと歩いても割とすぐ着くよ」。それは事実であった。事実であったし、地図アプリで確認してもやはり徒歩10分前後で大体どこそこからどこそこまで行けることも何となく分かってはいた。のだが、それが凄く奇妙だった。納得がいかなかった。舞台って、聖地って、そういうのだっけ? ウォーカーとしての感覚もそうで、例えば鎌倉から江ノ島までは徒歩1,5時間くらいである。アカイイトのあの駅(武蔵増戸)からあの山道までは、確か2時間くらい歩く。観光地として捉えても、やっぱりコンパクトな気がする。いやいや海沿いだから、サーフィンを嗜むにはもっと広く捉えられているのだろうとも思うが、サーフィンやる人はペリーロードや下田公園にはあまり行くまい。知らんが。
 そうして伊豆急下田駅に降り立ち、観光案内みたいなところで夏キセの観光マップを貰おうとするも無いと言われ、いいもーん知ってるもーんとばかりに道の駅に向かった。近い。強風に大変煽られたが、それでも10分くらい。電車降りて10分ちょいで黒船ってなんだそれ。スタンプラリーが1600までで諦めてペリーロードへ向かう。商店街を眺めながら歩いていたと思ったらトンネルを三つくらいくぐっていて、「サーフィン場 こちら ←」の看板を見て下田公園は逆方向だったと気付く。違うかなーと思いながら歩いていたんですが。後から改めて地図を見るに、やはり距離感が狂っていたようで、つまり駅からペリーロードも下田公園も、近かった。もっと歩かねば着かない場所なのだと、そう思い込んでいた。ペリーロードに戻り下田公園に行き、誰もいない馬場ヶ崎展望台で一休みして、駅前に戻ってローソンに入った頃には日は暮れていた。もう歩き回るのもなんだな、と思いながらそれでも商店街をうろうろして、夏キセカフェとなっている某占い喫茶店で飯を食い酒を飲み談笑し貴重な映像を見せてもらって終電(20時半くらい)で帰った。

 下田の駅を降りてしまえば、少なくとも俺の行きたいところは徒歩15分くらいでどこへでも行けた。下田までは東京から3,4時間。飛行機もいらない。商店街を歩けば地元の人がいて、下田公園には犬の散歩をしている人がいた。観光地、と言うには名物は少なく(バスの運転手さんに「今の時期下田公園に行っても何もないよ」と言われた)、微妙に遠い。「下田はハンパだ」と親も言う。全くその通りだと思う。だからそのハンパさに惚れる、というのは大いにあるなあ、と思った。夏色キセキが言いたいことも、また少し見つかった気がする。紗季のどうにもならない葛藤は、夏海達のどうにもならない葛藤と共に昇華したが、昇華したかのように見えるしきっと確かに少なからず昇華したが、それでも同様に、確かに少なからず残留するものもあった。夏色キセキは1話から12話までどうにもほろ苦く、またそんなにキレイに終わってなんかいない。だからと言って、2期があれば良いとも正直あまり思えない。下田は、住んでいる人からすれば失礼な話だろうが、なんだか哀愁たっぷりで、だからと言ってどうにかなればいいとは思えない。
 なるほど、なんて少しだけ思ったりした。

大義

 先週末だったか、会った人と「物語」が云々みたいな話になって、物語が無いだのなんだの言うのは古い、みたいなニュアンスであったことを思い出した。あれはどういう意味だったんだろう。
 物語は終焉など迎えておらず、ただ大きな/小さな物語の個々の境界は以前とは違うものになっている、というような把握で僕は聞いていたのだけれど、まあつまり、そのような把握です。そしてそれは別段、何ら変わらないものなんじゃないかなあと思います。想定される以前とやらと。

 とにもかくにもある作品を前に大変なエネルギーを感じることは多くて(無論、どんな作品にも大変なエネルギーはかかっておりましょうが)、そのエネルギーは発見されることもまた多く、それが結局隠されたものなのか、隠されているから「大変な」エネルギーと感じられるのか、調査を依頼したいところではあります。
 というのがロコ・モーションの話かガルパンの話かは読んでくれた方にお任せ致します。

藤井理乃『ロコ・モーション』1

 ロコという子がモコちゃん大好きで同じ職場に就いてせいちょうとかごはんたべたりとかするお話し。なのですが、ロコはモコちゃん大好きでアホだから、自分の追試の日に伊勢に成績優秀なモコちゃんの就職祈願に行くのですね。だもんで当然ロコは留年して、モコちゃん怒って、でもロコはモコちゃんと同じ就職先を希望して、追いかけて行くから!みたいなのが3話までで記されます。炸裂!って感じ。
 それで、こういうのをさらっと流してくれるのかな、と思いきやそうでもなく、全然そうでもなく、むしろロコとモコちゃんの馴れ初めみたいなのを最後のほうでやっと出してきたり、いやモコちゃんのほうがロコのことちょう大好きでした!とかやるんですが、そのやっと出てきた馴れ初めを見て二人の距離感がやっと把握できるわけで、うーんと、厳密に言えば把握していたはずの距離感を視認する、と言いますか、とにかくそういう構成になっておる作品に俺は滅法弱い。夏色キセキがまさにそれです。四人である、ということは頑なに譲らず、しかし何故四人なのか、二人+二人ではないのか、という疑問を他所に話は進んで行き、気付けばああ、確かに四人でした、というような。ロコとモコが友達になったところを確認したところで完了ではないということも諒解しながら私、この二人の二人性をそこでやっと垣間見れたわけでございます。これをして「低音が聞こてきた」などと言ったりします。それまでもちゃんと鳴っていて、鳴っていることも知ってはいたし隠されてもおらず、しかしその音は届かず、耳が慣れたのかなんなのか唐突に聞こえてくる低音。その瞬間曲全体の一つ一つの音の粒が再構成されて送られてくる。
 俺はこの、何がなんなのかわからないが確信できている感覚は好きで、だからこの後がどうかなーと思ったりもします。

 とりあえず13話扉絵の脱いだロコは必見。えろい。でもやっぱりモコちゃんが好きです。おわり。

コダマナオコ『不自由セカイ』

 つぼみ読者の皆様におかれましてはコダマナオコと言えば「レンアイマンガ」でありましょうが、百合姫コミックスから出版の本作はそちらとは随分毛色の違うものとなっておりました。

 

 外見の良さから同性に嫉妬され、いやがらせを受けていた茗子を救ったのは一学年上の礼央。それをきっかけに茗子は礼央に懐き、同じ部活に入る。部活動中にケガをした茗子をしばらくの間礼央が家まで送ることになるも、礼央に用事があって送ることができないその日、茗子はレイプされる。そのことに負い目を感じる礼央に付け込み、茗子は礼央を奴隷にする。

 

 というあらすじから「全ては茗子の計画だったんですね!スバラシイ!」と想像する諸氏には、今は一周回ってこんな季節です、とお知らせをしたい。どの季節もそれぞれ良いところがありますが、中々一つのところに止まるというのは面白くないものであると、そう思います。

 高瀬、という礼央の同級生の行動から礼央は茗子と距離を取り、それが引き金となって二人は愛を確かめ合うわけですが、実家に帰ってしまった茗子を追いかけて、事件のあった桜並木で礼央が顔を覆う場面の独白が印象的です。

>>

 いつのまに

 私はこんなふうに

 なってしまったんだろう――…

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 なんだ、「茗子に会いたい……」とかじゃダメなのか、と思わずにはいられない。無論ダメなのですが、その理由の一つは茗子との対称性を示すためだと考えられます。レイプされたがそれを利用する茗子と、奴隷だがその立場に甘んじて苦慮から逃げた礼央対称性。描写はされていないものの、つまりこのときの茗子は自分のこと・自分の状況のことではなく、礼央のことばかり考えていたのだろうと思います。

 「私なんかの言いなりにならない 高潔で女のくせに無駄にイケメンな礼央さんが」好きだ、という茗子の気持ちも本物でしょうから茗子にとっても正しくそうであるはずですが、礼央にとっての「不自由セカイ」が独白により描写されていました。ちなみに自由とは、そう、高瀬さんですね。(笑うところ)

 

 気になったのは、対称性を意識したためかBLっぽいところ。茗子が自虐的に過ぎるとか、礼央さんほんまの自己中天然タラシや、とか。あとは季節と言ったように、特段の目新しさはありません。巡り巡る類のプロットなので、人によっては古いと感じるかもしれません。個人的には、コダマナオコだからBLっぽさも感じるし、コダマナオコだから古臭くは感じなかったなあ、というところです。桜の舞う季節がどうか、二人にとって穏やかな季節でありますよう。

文学はじめました

 創作をせねばならない、なんて考えたことはなくって、なんだかついったーのタイムラインには創作者たちの圧力を、つまり創作せねばならないという圧を感じるという人もいるようだけれど、俺は今でも高みの見物を決め込んでただケチを付けるだけのガキでいるつもりでありますが、11月18日の文学フリマはイ-56にて頒布予定です。

 

 タイトルは「ゆりくらふと」。俺が考えるとどうしても、まだなんかこう、違うなあ……などと迷った挙げ句変な方向(意味不明な方向です)に走ってしまうので、考案者様に感謝であります。ストレートで良いと思っています。あとなんかかわいい。

 俺は何とも言えないパースペクティブの話を書きました。あと与太でパースペクティブの話を折り本に書きました。何事も無ければ500円で両方読めます。百合を、あるいは作品を少し違った視座から眺めてみたい、と思ったならばきっとお買い得です。

 というかメインは小説です。参加者様たちにはテーマを一応述べたのですが、やはり百合は凄いなあ、と改めて思いました。どれも力作です。

 お時間あれば是非お立ち寄り下さい。

 http://yuri-craft.xii.jp/

与太と『リトルアーミー』

 評論なり批評分析なりを毛嫌いする向きに関しましては、ワタクシ、そんなに「なるほど」と思っているのか、と思います。

 考えてみると、俺、評論なり批評なりの内容に噛み付いたことは何度となくあったろうけれど、その行為に文句垂れたことはない…んじゃないかなあ。ごめん、記憶曖昧です。そもそも人は人の好きにすればいい。そう思っているところが大きいんだとは思いますが、同時に、例えば俺の好きな作品に対する批評があったとして、中々「なるほど」と思わない、というのがあります。もう少し言えば、なるほどとは思うものの、そのなるほどはその批評した人間に対するものであって、作品・批評内容とはまた別の軸である。この人はこういう風に作品を見たのかー、のなるほど。そこに俺の見方はまるで関係無いのであって、ええっそんな見方って無いよっ!と身内に絡んだり、ああこんなつまらん見方もあるのか、と呟いたりするくらいでそれは批評という行為そのものの話では当然無い。よって批評等そのものを毛嫌いする向きにおかれましては、批評内容へのコミットは筋が悪かろうと考えます。

 ただ、存外にそういう向きが周りにいる。ついったーで呟かなくても、実際会って話してみると批評とかマジ勘弁、だったりする。なんでかなーと思う。主語の大きさと批評も関係無いし(批評をする人間に主語過大が多い、てのはまあ、あるんでしょうけど)。考えるに、批評の意味するところが「正しさ」になってんじゃないでしょうか。批評は、善悪・美醜・是非などを評価し論ずること、なんてありますが、つまり、そう捉えていない。批評をすることイコール正しさの決定、みたいな。もしそう認識されているとすると、そう認識されるだけのものも相当量ある可能性はあるわけで、滅べばいいなあとは思います。まあ「お前の中ではそれが正しいのだろう。お前の中ではな」で良いと言えば良い。ちなみに「分析」というと、何かを成立させている要素・成分を明かにすること、とあります。これは主語の問題で、実質検証の仕様が無かったりする(ことについて言われる)ことが多いと見えます。「Aという作品が面白いのは要素Bによるものだ」と言われても、明確に肯定も否定もできません。そういう側面もあるかも知れませんね、と言えるのみ。本来なら分析とは「Aという作品の監督Bは監督Cの影響を受けていて、そのことは○○に明記されている。よって作品中のこの描写がある」とかそんなのが分析ではなかろうか。無論、それも個人的な分析に止まるわけです。

 とりあえず俺の中で批評とは、ここは良いよね、でもここは微妙なので、こうだったらもっと良かったかもね、なんて言うのがそれです。それで、そういうことを言うには個々人の創作的な意匠が残念ながら紛れもなく付きまといます。だから、批評が好きです。いやーせっかく一つの作品についてそれなり以上の人数であれこれ言える場があるってのに何も言わないなんてのはもったいねえ。無論、言わない、というのも一つの芸であることを俺は知っていますが。

 何にせよ、批評内容について思うところがあるのなら、それは自分の中にその批評内容に対する正しさ的な「なるほど」があるのでは、と思ってしまいます。で、それって良いことに思えます。俺は滅多に無いので。シヤキョーサク。

 

 ところで『ガールズ&パンツァー リトルアーミー』読みました。

 初っ端カラーページの「私も普通の女の子になるんだ」といい西住さんの友達観(的トラウマ)描写といい、読むんじゃなかった、と半ば思いました。と言いつつ読むのは、アニメで戦車を車長として動かす西住さんはやっぱり格好良くて、楽しそうな瞬間…はまだそんなに多くないけれど、それでもイヤイヤには見えなかったりするからで。友達が出来て喜ぶ西住さん同様、戦車をもっと活き活きと動かす西住さんは、うむ、見たい。そして活き活きと戦車を動かす理由に、あの素敵な友人たちがあったならいい。友人たちも西住さんと共に前へ進むであろう。と思うので、リトルアーミーは買いだと思います。

 あ、話繋がってねえ。