face on

あぅー

たまゆら ~もあぐれっしぶ~ 11話

 時の流れについて。
 どうしよもなく流れていくそれについて、どうしようもなく流されて、どこに行くのかなんて分かるはずもなく、行き着く先の想像なんて以ての外で、要するに、流れていくことについての拒絶があって、ただそのことは、そう恐れることでも悲しむことでもないと仄かに知りながら。
 だから否定も肯定もできずに、あるいは否定も肯定もしながら。


 というような表情は、はっきり言ってかなえ先輩からは見て取ることができなかった。
 それでも、その思いが伝わるのは、かなえ先輩に少しだけ似たぽっての写真。
 光が少ないからボケた、と画面上は言いながら、その、かなえ先輩の思いに、あるいは時の流れのことについて、少しだけ思うところのある、感じたことのある、いや、今まさに感じているぽっての撮った写真だから、「かなえ先輩の分も撮ります」と言って撮ったぽっての写真は、少しボケている。そう思った。

ラブライブ!

全力で否定して欲しい作品であるなあ、と思ったりしました。
というのは前に『たまこまーけっと』について書いたら、「もっと怨念を込めて!」みたいに怒られたのを『ラブライブ!』見てて実感したということなのですが。それでも、怨念を半端にしか込められなくても何か言ってしまうというのは、つまり『けいおん!』と切り離してたまこまを見ることが不可能である故だと考えます。面食らった、とか。それでいて半分予感はあった、とか。
以上たまこまの話。以下ラブライブ!


 やりたいこと、興味のあることが、別の目的を達成させる可能性があった。スクールアイドルとして活動することが、廃校を阻止するかも知れなかった。
 だからそれをしたわけですが、そのスクールアイドルのグループはあの9人で、あの9人でしかあり得なかった。

 やりたいこと、とは何なのか。1話のそれらしいセリフより。

「そんなに学校、好きだったなんて」(ことり)
「だって、学校なくなったら別の高校入らなくちゃいけないんでしょ?受験勉強とか、編入試験とか。」(穂乃果)
「あたし、この学校好きなんだけどな……」(穂乃果)
「うちはおばあちゃんもお母さんも音乃木坂でしょ!」(穂乃果)
「でも、やっぱり寂しいよね」(ことり・電話)
「だってこんなにかわいいんだよ?こんなにキラキラしてるんだよ?」(穂乃果)
「穂乃果みたいに好奇心だけで始めても、上手くいくはずないでしょう」(海未)

 廃校は阻止したいけれどそこまで積極的な理由でもなく。穂乃果がA-RISEを見たときの衝撃、の描写が印象深い。無論、廃校もイヤであって、だから「最高のアイデア」と言った。今まで見たことも無いようなキラキラしたものに自分もなってみたい、という思いと、その達成による廃校阻止の可能性。そして、3人一緒にいたい、ということ。それが叶う可能性のあるアイデア。それがこの時点でのやりたいことであり、それは最後まで変わらない。

 2話以降は、7話で廃校問題が差し迫るまで、やりたいことをメインに話が進みます。というか1話も7話以降もそうなのですが。

「初ライブが上手くいきますように」(2話 ほのことうみ)
「わたし、ちょっと簡単に考えすぎだったのかも」(穂乃果)
「だって穂乃果たち、学校のために頑張っているんだし」(友人三人組)

「だって、そのために今日まで、頑張ってきたんだから!」(3話 穂乃果)

「なんにも囚われないで、一番やりたいこと、一番面白そうなものに怯まずまっすぐに向かって行く。それは、穂乃果にしか無いものかも知れません」(6話 海未)

 「ちょっと簡単に考えすぎだったのかも」という穂乃果のセリフは、例えば「そんなに難しいことなのかなあ」と言うこともできて。7話の「上級生だよ」と真姫を窘めるところも含め理知的。
 中盤6話の海未のセリフは「まっすぐ」というのが印象的です。
 砂漠を歩いていると、本人はまっすぐ歩いているつもりでも景色が360度同じために左右どちらかに少しずつ傾いて大きな円を歩いてしまう、なんて話をどこかで見ましたが、まっすぐさが前に進ませない、というのはそんな感じなのだろうと思う。11話あたりの話。

 最終的に廃校は回避、ラブライブ出場もなくなって、穂乃果にとってのスクールアイドルを問う12話13話、というのは嘘で。知っていることを思い出しただけ、あるいは無二の親友が遠く離れることが初めての経験であっても、やはり無二の親友と離れてはならないことは知っていたことでしょう。
 ラブライブ出場はそもそもスクールアイドルをやることの延長線上にあり、ついでに廃校阻止にも役立ちそうというくらいの受け止め方に見えます(7話)。ただその目的が、何となく大きくなっていただけ。廃校阻止に関しても同じように、何だか知らないけれど段々とその存在感を増していっただけ、と思います。
 あまりにも叶いそうにない願いなら叶わなくてもどうということはありません。願いが叶いそうなとき、最初の叶えたい思いを越えて、叶えたくて仕方が無くなるものです。でもそれは最初の小さな願いの通り、些事と言えば些事です。本気で叶えたかったその時の思いを肯定しながら、ハナから小さくない願い、やりたいことを描写する。
 やさしいお話しでした。というのがあらすじ。
 ちなみに穂乃果の友人三人組の描写は優秀で、そこそこ近しい人がスクールアイドルなんていう巷で流行っているがアイドルですよ、アイドル!なんてものを始めようものなら、普通はそこに理由を探します。そして近しいが故に、応援の声をかけるわけですが、応援の理由は勝手に探した理由であったりします。かつ嘘の理由でもない。11話12話あたりで騒いでいた方々は、近しくない友人であったのだなあと思ったりします。

 俺としてはここで、ではなぜ廃校を回避させたのか、と考えます。
 話の筋が「やりたいこと」を発見/自覚・実行する、というものであるなら、そしてその障害の一つとして廃校問題があるのなら、やりたいことをやる描写のために廃校を回避する他に、廃校にする、という選択もあります。廃校が回避されて尚やるからやりたいことなんだ、という理屈と、廃校が決まっても尚やるからやりたいことなんだ、という理屈は、共に成り立ちます。
 無論この答えは、あの9人でスクールアイドルをしたいから、であって、廃校になれば1話で言われる通り、みんながバラバラになる懸念に晒されます。だからそのカウンターとして、バラバラになりそうでならない道を選んだ(12話・13話)、と見ます。彼女らを見続けたい者にとって、誰得であるはずがない。


 誰にとって誰得であったかと言えば俺で。
 俺は、バラバラになることを知りながら、それでも行われるラストライブを見たかった。それに放たれる空虚な喝采を浴びせる一人に、例えば、なりたかった。

脱臭

 俺の知るところの「脱臭」とはデフォルメであって、それをおかしいというのはおかしいと思うのでありまして、かつ俺の把握するところの「脱臭」の使われ方は、関係の中に生じるものに対するものであったわけです。というのは「けいおん!」の番外編だったかで四人が若干噛み合わない、脱臭批判的内容に対する批判から「脱臭」というワードを見た記憶があったから言ってるのですが。

 男性、乃至は異性を排斥することを脱臭と言うのは、うーむと思うという話。そういうことじゃないんじゃないか。時によって見えないところを見ようとしたりするのに、そういうのはちょっとずるいような気が致します。
 折角百合アニメが増えてきたのに妙な言説があったのでは堪らない、などと思ってこういうことを言ってしまうのが正に小物感バリバリですが、男性(異性)のその時点での不在があってそういう空間があるから、だからその空間が切り取られたのだ、と読むことくらいはして良いと思う。あとは邪推なり何なり。百合はそんなことでは挫けない。無論、だからビビッドレッド・オペレーションでじいさんが存在することが悪いのではなくて、じいさんが示現エンジン作ったりあのオペレーションのプログラムを組んだとしていることが悪いのであって、それとは全く別の話として4人が(5人が)そのようにあるよ、という6話はそういうことであると思います。
 何の話だ。

ビビッドレッド・オペレーション

 良き時代です。欲張りになるのは致し方ない。
 なんともうーむと思わせる今季でありますが、閃乱カグラだけは諸手を挙げて諸手を挙げられますね。乳がどうでもよくない人にはそれはそれで大変でしょうが、乳がどうでもいい俺にはなんかどうでもいい中女の子たちが笑ったり戦ったり少しだけ物思いにふけったりしてるぞ☆で見事に終われる。真面目に見ても面白いんですが。斑鳩さんは葛ねえのことを思ってオナニーしてんだろうな、秘技使いまくりなんだろうな、とか。でもアスカのことが好き☆悪女☆

 ビビオペ。4話まで。ひまわりちゃん。あとはーくん
 わかばちゃん持参のひまわりちゃんの服ですが、わかばちゃんが自分用として買ってみたものの説は微妙。なぜならわかばちゃんおばかなほうが良いから。剣道ばかりに勤しんできたからこそのかわいいもの好きであっていただきたい。だもんで、モモのために買ったってのもイマイチ。ひまわりちゃんにはこれが似合いそう。ああ、あのモモちゃんにはこれかな。などと見ていたら買っていた、くらいが良いです。強く生きよう。
 というあたりで、彼女らの何とも言えぬ繋がりがうーん。このへんは駆け足というより紗季に(先に)あえて描写したんだろーなーと思いたい。夏キセメソッド。(そうでもない) 駆け足なのはドッキングで、ドッキングだけが駆け足で、他は特に何も。駆け足は悪いことでも何でもなかろうと思います。いや実際はやたらに可愛いせいでなんだか可愛いという概念を見せられているようでアレなのですが、それよりはその向こうにある4人でのドッキング☆に興味シンシンなのでもう何でもいいです。そのときのあおいちゃんが見たい。
 可愛いものを見せられている感じはラブライブ!もそう。たまこもそうかも。女の子だらけになるとこのへんには敏感にさせられる。ラブライバーの3年後なんかも、わたし、気になります
 あとそういえば、けっこう女の子が女の子をおんぶとか(おひめさま)だっことかする。それだけなんですが、そのときのだっことかされたほうのキョトンとした顔を見れるよ、見れるんだよと、俺はそう伝えたい。

続々

 まがいものを好む者は、まがいものがまがいものであることを否定しない。そのまがいものが一体どのようにまがいものであるかを考えることはあっても。いっそのことまがいものであることにプライドを持っていて欲しいとすら思う。まがいものスキーのプライドとして。

 例えばガンプラは、あのツヤが良い。ツヤを消してウェザリングされたものを眺めるのも好きだが、やはり合わせ目を消したくらいのもののほうがずっと好きだ。あのプラ感が良い。軽そうで、チャチなのが良い。

 『たまこまーけっと』には、百合でもちょい田舎の商店街でも男女の幼なじみでも、あるいはあの鳥というファンタジーですら、そうしたまがいものなりの開き直りが足りないように思った。リアリティという言葉を使うとちょっと難しい。それよりはいっそ、どこかしら、つまり何か一つでいい、コレ!ってもんを欲しているような気がする。それはつまり「アニメとして」なんてゆー陳腐な思いなのかも知れないが、逆にだからこそ、そのコレ!ってもんを、アニメとしてのコレ!ってもんを、作画にしてほしくない、のかも知れない。

 「夏色キセキ」は成長物語である、ということに納得するには、時間は多分さしてかかってはいないが、何だか悶々としたものがあった。ああそうですか、やっぱり彼女らは行ってしまいますか。と思いながら、いつだって俺の手の届くところになんか居なかった。彼女らは下田に行ったって会えやしない。あるいは、下田で彼女らに会ってどうするのか、会いたいのか、手の届くところに居て欲しいのか、と自らに問えば、まあそうでもないなあ、などと。けれどもそうした何かしらの願望(欲望)、そんな自然に捻れた構造の願望の元になっている作品の出自は一体どうなっているのか。そういうことを考えたりもした。

 最近は繰り返し『機動戦士ガンダムUC』を見ていますが、「強烈な否定の意志」という言葉が出て来ます。これが大変私、お気に召しまして。夏色キセキの作画がアレだったことに本気で気付かなかったというくらいロクに何も見ていない俺ですが、なんだかそういう感情のあれやこれやが大好きみたいで、作品ってのはつまり、否定でなくても全然いいんですが、やはり大変な意志によって作られたものであるだろう、と思っていて、そんなところばかり見ているような気がしています。
 あるいは俺もやっと環境を整え、自室でリアルタイムでアニメを視聴できるようになりました。で、リアルタイムでアニメを視聴していないんですが、ついったーのタイムラインを見ていると、かなりびっくりする頻度で「うーん、切りだな」みたいな、アニメを何話かで見切ったという旨のポストを見かけます。特にクール序盤。
 個人的に、アニメを見続けるというのは、例え1クールであっても凄いことで、一体何時間そのアニメに捧げてんだよ、とか思う。それを見続けさせるのは、作品の意志と、視聴者の感度だと思う。もう大体みんな絵キレイだし。概ねキャラの属性も揃ってるし。今やコンテンツはコミュニケーション無しには云々なんて話もあるけど、コミュニケーションの元となるのは一視聴であって。俺も好きですが、『リリカルなのは』が売れたのだって、そりゃそんな理由もあろう、と思う。上手い商売とかもありますでしょうが。
 それで、『たまこまーけっと』にもあるだろう意志が、俺には見えなかった。そういう話。百合でなくてもそうだろう、とさっき書いたのはそういうことで、というのは(説明の説明)、俺には「百合」を見せられているように感じた、ということです。人によっては「商店のあり様」や「幼なじみの男女」なんかをそう感じただろうな、と思った。ここで百合が強く出られるのは、百合がめんどくさくもそこそこ話に出やすいのは、百合がよく分かんないからです。「この作品で俺は百合を感じたッッ!」と言うこともできる、ということです。そしてそういう百合のあり様を創造しようとする作者の意志を想像することも、例えば、可能です。んで、俺ならそれをして、「勘違い」と言います。

たまこまーけっと

 ある対象に反発する形で現れるものではなく、ある対象と距離を十分に取った、ある対象と無関係である様を目指したときに、結果的にその対象を経由(描写は反発かも知れないし礼賛であるかも知れない)したほうが効率的であるのではないか、ということで対象と関係を結んでしまう、結ぶことを選ぶ、そんなことがある。そしてそういう理路を経ずにそれを表そうとすると、それはただの勘違いになる。イマドキ風の日常モノにファンタジーと百合をちょいと混ぜて。そう見える。

 1話を見て2話を見ていなかった俺に友人たちが「2話いいよ!」と言うので、みんなで見た。古参の証、"警戒心"を発揮する俺はすぐさまヘテロ死すべしと心の中で唱える。が、例えば2話を百合筋で見ても、ふーんということであった。あまりにも他人事過ぎる。
 百合は電源のようなもので、そこが悪いとあちらこちらに支障を来す。だから百合を勘違いするとこういう事態になる。女の子同士の恋模様も百合だしただのキャッキャウフフも百合だし姉妹喧嘩も百合だし女の子が女の子の髪の毛触ったら百合だが、そのどれかがあれば百合になる、のではない。と、俺なら言うが、きっと百合という言葉を使わなくても同じ状況なんだろうな、と思ってたら某MK2さんが書いてました。まる